Individual個人・個人の・個々の (記:オシオ)

平野啓一郎さんは、この本(「私とは何か 『個人』から『分人』へ」)で自らの思考をまとめるにあたっていくつかの本を参考にしている。レイモンド・ウィリアムズの「キーワード辞典」、コリン・モリスの「個人の発見」が上げられている。中でも前者はかなり丁寧に取り上げられている。そこで今回は同書で個人individualという語の変遷を辿ることにし、その後で平野さんの分人について考えていきたい。

 

レイモンド・ウィリアムズの本は、平凡社ライブラリーのもの、取り上げるキーワードはindividual(個人・個人の・個々の)の箇所で、p.265からp.271までの7ページにわたって解説されている。

 

この語は「元来、分割できない(indivisible)という意味」。現代語での意味は、「個人・個人の・個々の」という意味で他との区別、違いの強調に力点を置いている。ところが、元来の「分割できない」という意味は他とのつながりを前提としている。すなわち、あるものが分割できないとは、それがまず分割の対象であり、次に分割可能かを考え実際にやってみる、ないし思弁的に検討して、分割ができないと結論づけて、分割できないと結果されたのであるから、分割できるものと分割できないものというカテゴリーをめぐって思考がすすんだことになる。それゆえにこの結論に至るには分割できないというカテゴリーを必要としており、このカテゴリーは自分の反対物、すなわち、他なるものを必要としている。これに対して現代語での意味は、他よりも自分自身を押し出すことに主意があり、他のカテゴリーを必要としないので、元来の他を前提とするものとはまったく違った場所に立っていることになる。この変化を、著者は、「社会・政治に起こった歴史の記録が言語に刻まれたもの」だとする。

 

「中世ラテン語のindividualisがこの語の直接の前形」である。このindividualis6世紀のラテン語individuusから派生したもの。これはギリシア語のatomos(切断できない、分割できない)の翻訳語として使われた。そこで、6世紀のポエティウスのindividuusについての定義は、この語の意味の変遷を考えるうえで参考になる。ポエティウスの定義は次の通り。

 

あるものがindividuus(分割できない)といえる場合、それは、

    単一体、もしくは精神のように、まったく分割できないものはindividuusと呼べる。

    鋼鉄のように、その硬さゆえに分割できないものはindividuusと呼べる。

    ソクラテスのように、同種のもののどれにも当てはまらない固有の呼称をもつものは

individuusと呼べる。

 

このindividuusからindividualisが派生したが、individualisは中世神学の三位一体の議論で、本質的不可分性という意味で使われている。これはポエティウスの定義でいけば①にあたる。この用法は17世紀にも使われ、individualisを祖とする語形individuallの用例であるが、「individuall、それは夫婦のように分かつことのできぬもの」(1623)とある。②の意味については、物理学では17世紀以降、原子を表すatomindividualにとって代わった。もともとindividualの祖型であるindividuusatomの翻訳語だったのだから代理人に代わって本人が出てきたことになる。このことによって②の意味は現代では薄くなっていった。すなわち、分割できないという徴表が後退する。昔はみっつの定義のうちふたつが分割をめぐるものだったのが、ひとつがなくなり、1対1となり、固有系と対等になった。こうして他との区別できるひとりの人間をさす③の意味が、17世紀初頭以降存在感をもちはじめる。

 

このことはin the general(概して)に対する in the individual(個々に)という対比語句の用法の広がりのなかに見て取れると著者は言う。従来individualは形容詞的用法が主であったのが、この用法によって名詞となり、「新たな名詞の出現という重大な事態の契機となった」。名詞可することがどうして重要なのかの説明はないが、形容詞が名詞になるとはどういう意味なのか、興味のあるところである。

 

過渡期の時代、すなわち、individualが「個々の」という意味で使われる一方、まだ名詞にならず形容詞として使われていた例として、「個としての(individual)人間についてのわれわれの観念」(ロックの『人間悟性論』1690)がある。現代のように名詞ではないが意味としては固有系となっている形容詞としてのindividualである。

 

名詞化の進展にはあるきっかけが必要だった。社会・政治思想の領域でこの語が名詞化していったのではなく、論理学と18世紀以降の生物学においてそうなった。論理学での用例は、「論理学における個体(individual)とはこれ以上同じ名前や性質で分割することのできないものをさす」(フィリップ1658)。ここでは分割系と固有系がフィフティフィフティで言及されている。これと同じ用法が生物学で利用された。ということは分割系と固有系がフィフティフィフティだったということである。固有系は勢力を得つつあるもののまだ自立できていない、すなわち、分割系のニュアンスをまったく持たない現代語にはなっていない。

 

こうした折衷的な用法に関して決定的な態度の変化がみられるのは18世紀の終わりである。「狩人や猟師からなる未開の民族のなかでは、個々の人(individual)は日常の必要を満たすのに有用な労働に携わっている。」(スミス国富論1776)この用例ではindividualが端的に個々人という意味である。またそれは名詞であり、分割系のカテゴリーの痕跡はまったくない。19世紀になるとindividualのこうした用法は生物学、政治思想のふたつの領域で頻出する。「同じ種のすべての個体(individual)が同じ型からできたように、現実にまったく同じであるなどとは誰も思わない」(ダーウィン種の起源1859)この用例は画期的である。Individualはカテゴリーを超えていると言っているのだ。「存在の基本的次元としてのthe individual(唯一無二の個)が、ある集団の一例としてのan individualを取り込み凌駕していった。」と著者は言う。この個人はほとんど神に近い。何故なら旧約聖書は「太初に言葉があった。」で始まるが、individualは言葉を凌駕するものとなっているから。ここに来てポテティウスの定義を遙かに超えた領域へとすすんでいく。

 

本書のCreativeの用例(p.130-p.135)を読んで驚いたのだが、creativeで有り得るのは元来神のみだった。神のみが創造者であって、人間は被造物であるからヒトはcreativeでは有り得ない。Creativeにはそういう含蓄があった。欧米ではこの著者の著作でも明らかなようにindividualcreativeという語の来歴を考える中でこの文明が神を凌駕する意図を含むことが意識されているが、この文明に否応なく取り込まれた欧米由来でないわたしたちにとってはどうであろうか。個々人は神を凌駕する、と意識しているであろうか。無意識下においてすらしていないのではないか。「創造性を発揮しましょう」とわれわれが言うとき、それは我々が神のごとくあり得るからそのように言うことができると思っているだろうか。もっと軽い。誰にもない工夫をしましょう、程度であろう。それはcreativeとは言わない。individualityのあるものでもない。西欧文明の脈絡ではそうなる。

 

 「現代につながる意味でのindividual(個人性・個性)」という概念の登場は、中世の社会、経済、宗教の秩序が解体したことと関連させて考えることができる。」「厳格な階級制社会における地位や機能を超越した人間の、個人としての存在が新たに強調されたが、・・・これは教会を仲介として成立する神との関係と対立するものであった。」

 

「論理学と数学における新たな分析方法が個を実体的存在として仮定し、その他のカテゴリー、とりわけ集団としての範疇はそこから派生するという考えになったのはようやく17世紀末から18世紀にかけてのことである。」という下りでは、ますますヒトが神的なものに置き換わっている。実体についてスピノザは言っている。「それ自身においてあり、他に由らないもの。」と。そして実体とは神である。その結果「根幹をなす存在を有する個人から始まって、社会の法則や形式はそのような個人から派生するとされた。たとえばホッブズの場合は人々の服従によるし、自由主義の場合には人々の契約ないしは同意、もしくは自然法についての新しい見解によるのである。古典経済学は、ある出発点において経済的、あるいは商業的な関係に入ろうと決心した個別の個人というものを仮定するモデルを使って通商を説明した。近代経済学を支える功利主義の倫理では、ひとりひとり独立した個人が、自分が始めるかもしれない行動を推し量った。このときの個人はソクラテスといった固有の名称をもつだけにとどまらず、世界創造をなしうるcreativeで言葉発生以前の世界の創始者の含蓄をもつものである。

 

こうして科学的思考と政治経済的思考とを通じて現代に通ずる個や個人の意味合いが生まれかつての分割系は影がうすくなってきた。「とはいえ、すでに19世紀初頭から、このなかで(さらに)ある区別が出てきた。これはindividuality(個性、個であること)とindividualism(個人主義)という二つの派生語の発達に要約できる。後者は自由主義の政治・経済思想の主流をなす動きに対応している。ジンメルによれば、唯一無二の独自性という意味での個人主義が単一性の個人主義と対置され、後者の単一性は量的思考、前者の唯一無二の独自性(かけがえのなさ)は質的であってロマン主義運動の概念であり、進化生物学の種が強調され、個体は種に結びつけて考えられるものの、同種のなかでの独自性は認識されているという。

 

著者は最後にindividualityindividualismについて言う。前者の方が歴史が古く、individualの発展を育んだ意味の複合体から生まれたもので唯一無二の人間とその人間の集団への不可分な帰属、この二つをともに強調する。フィフティフィフティという訳だ。「これに対してindividualism19世紀の造語であり、「斬新な考えが生み出した斬新な表現」(トクヴィル)であって、それは単に抽象的な個人を扱う理論にとどまらず、個人の地位と利害関係をこそ第一とする理論でもあるのだ。」と言っている。

 

 仏教では存在というものを実体的なものとはとらえず、関係的なものととらえていると聞いたことがある。これに対してギリシャ時代のデモクリトスにはじまる原子論的な考えは今でもindividualに残っている。Individuusatomosの訳語であった。著者にもその気配を感じる。この点でマルクスの「『個人』は『社会』がつくりだしたものであり、さまざまな関係のなかへとうまれてきて、それによって決定されるのだと論じた」とある通り、神が社会で、個人はその被造物という関係になっている。わたしは、大局では社会が主で個人は従だとするのが適正だと思うが、小局では個人が社会に影響をおよぼすこともあると思っている。

 

 

付録 平野啓一郎の「『個人』の歴史」について

この論文は「私とは何か 『個人』から『分人』へ」の末尾についている。その主旨は、今までしてきたようにウィリアムズに依拠してindividualの変遷を辿るものである。それに加えて、コリン・モリスの「個人の発見」という本も参考にしていて一神教のキリスト教とindividualについても語られている。類推的にカトリックとプロテスタントの違いにも気づかされる。個人の色彩の強いのは神と一対一で向き合うプロテスタントである。また個人という言葉がどう日本語に定着していったかにも触れられていて興味深い。

 

ただひとつ気になったのは、わたしが驚いたところの、個人というカテゴリーがあって次に社会というカテゴリーをつくるという思考プロセスが個人概念によってもたらされたこと、これに彼はまったく触れていない。またその個人概念が実体論的なモデルであることへの違和感も表明していない。

 

このことが彼の分人論にどんな結果をおよぼすのか、あるいはおよぼさないのか、ゆっくり考えていきたい。

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